慢性膵炎ノート

明るく!慢性膵炎生活

慢性膵炎体験談

さーやさん   (2009年12月)
 
ERCP後の重症急性膵炎体験記

皆様はじめまして。さーやと申します。
以前は手術室の看護師でしたが、今は産業看護職として企業内診療所に勤務しています。
現在夫はERCP後の重症急性膵炎で大学病院に入院中です。

【発症まで】
夫は以前より会社の健診で胆石を指摘されておりました。
炎症を起こす前に、いずれは腹腔鏡で摘出しよう思っており、近くの総合病院を受診。その際、総胆管にも石があることがわかり、まずは内科でERCPにて総胆管結石を除去、その後、外科で腹腔鏡で胆嚢を摘出ということになり、09年11月9日にERCP目的で入院しました。

* 11/10 検査当日

ERCP後、主治医からは総胆管に管が入らず、膵臓にしか行かなかったことと、結局石は取れなかった旨説明がありました。
釈然としないものはありましたが、翌日私は仕事があることもあり、夫も特に変わりなさそうだったので帰宅。
  ただ、その夜夫はかなり激しい痛みを訴えはじめ(このとき家族には連絡なし)血液検査もアミラーゼが1000まで上がっていたのです。

* 11/11

昼ごろ、仕事をしていた私の携帯に病院から連絡が入りました。
「昨夜から痛みを訴えているご主人の件で、主治医から話があります」とのこと。
なんともいやな胸騒ぎがして、病院まで車を走らせました。

主治医からは、「ご主人は急性の膵炎を起こしている。アミラーゼが1000を越え、CTでは腹水も溜まってきている。治療には全力をつくします」と。

「急性膵炎。」
私は血の気が引くのを覚えました。
臨床で経験したことはありませんが、重症になれば致死率の高い病だと知っていたからです。

完全にパニックになっていましたが、「全力を尽くす」という主治医の言葉を信じて、ただただ苦しむ夫に付き添うしかありませんでした。
しかしこの主治医の、「全力を尽くす」を信じたことが、大きな間違いだったのです。

夫はその夜、痛みと吐き気にもがき苦しみました。
夜中から尿の色が赤いことに気づき、看護師に検査を求めましたが尿器にとっておいた尿をみて、「濃縮尿です。」と私の目の前でトイレに捨てられました。
「築尿はしないのですか?」の問いかけにも、「築尿の指示はでていません」とのこと。
そのうち、下血が始まりました。そんな夫に指示が出ていた痛み止めは「ブスコパン」。
腹膜炎による麻痺性イレウスが懸念されたので、ブスコパンは拒否しました。
夫にされている処置は、腕からレナロミンと抗生剤の点滴のみ。
私は主治医を呼んでと頼みましたが、結局朝まで医師の訪室はありませんでした。

* 11/12~13

朝の採血結果をもって、主治医があわてた様子で訪室。なんとアミラーゼが2800まで上がっているというのです。
私はその場に座り込んでしまいました。「なんで? なんで?」
そして主治医に懇願しました。
「医大のICUに転送してください。」
さすがに主治医もただごとではないと思ったのか、医大への転送手続きを始めました。ただ転送が決まっても、なかなか夫を運んでくれないのです。
看護師に「まだですか?」ときくと、「運転手が今いないから搬送できない」との答え。
消防署から救急車が来るとばかり思っていた私は、意味がわからず聞き返すと、病院の所有する救急車で搬送するとのこと。
「消防署から呼んでください」と懇願するも、結局3時間ほど待たされたのでした。

  病院所有の「救急車」は酸素もモニターも一切ないお粗末なもので、搬送時も「サイレン鳴らしますか?」という間の抜けた対応。

もがき苦しむ夫を乗せ、11:00頃やっと医大に到着。
医大では医師団が待ち受けていて下さり、到着するやいなや、CT、動注、EDチューブの処置を始めました。
一通りの処置が済み、ICUに運ばれた後、医師から説明がありました。
「ご主人は、重症の急性膵炎です。急性膵炎でもERCP後のものは一番たちが悪いのです。」
その後、今後予想される状況、その状況に必要な処置など事細かに説明がありました。
急性膵炎は、発症してから24時間以内、最悪でも48時間以内の処置が予後を左右するとのこと。
「なぜもっと早く医大につれて来なかったのだろう」という胸をかきむしるような後悔の念が湧き上がります。
私は前夜一睡もできなかったため、朦朧とした状態で、「はい、はい」と聞くのが精一杯でした。

夫と会えたのは説明のあと。体の目と耳以外の穴にからはチューブが入れられベッドに横たわっています。
痛み止めと軽い沈静がかかっているので、うつらうつらとして苦痛からは開放されたようで、それだけが救いでした。
そんな中でも、夫は「○○総合病院とは全然ちがう。ここの先生なら大丈夫だ」と、うわごとのように話していました。

その夜、状態が急変する可能性もあるとのことで家族控え室で一夜をすごしました。
頭に浮かぶのは、最悪の状況。それを全身を震わせ否定し、まんじりともせず長い夜が明けたころ、医師から連絡。
「呼吸状態、腎機能ともにかなり悪化してきている。気管内挿管と透析を開始します。同意書にサインを」とのこと。

挿管前に、夫と会話を交わしました。これが最後の言葉になるかもしれないという思いを、なんとか振り払い「がんばってね」と言うのが精一杯でした。

夫の気道はかなり挿管が難しかったとのことで、麻酔科の医師が、カメラを遣ってやっと挿管したとのことでした。
処置後、夫と対面しましたが、多量の輸液で顔も体もパンパン。ただ、逆に意識がないのがせめてもの救いです。

  * 11/14~

11/14までは、家族控え室につめていましたが、ICUは面会にかなり規制があります。
医師から、「病院にいても、同じことしか考えないでしょう。そろそろ家に戻って、まずあなたの生活をたてなおしてください。」と言われ、自宅に戻りました。
また、仕事も秋の健診真っ最中で、放り出すわけにもいかず、歯をくいしばって仕事をしたあと、夫に会いに行くといった日々でした。
1日が、何週間にも感じていました。

* 11/15

子供らとともにICUに向かう途中、主治医と出くわしました。主治医から沈痛な面持ちで「説明したいことがあります。」と言われカンファレンスルームへ。
医師からは「検査の結果は少しずつ良くなってきていますが、今日のCTで左肺の下に巨大なのう胞ができていることが判明しました。また腹部や臍周囲の皮膚に黒ずみが出てきています。このサインが出ると致死率は6割くらいになります。今のところご主人が助かるのは五分五分です」との話。

説明の途中で、医師の話はもう私の耳には入ってきませんでした。
CRPが少しづつ下がってきていた時だけに、失望も大きく、正気を失いそうでした。
医師の説明後、眠りつづける夫のそばに行き、「おいていかないでね」と繰り返し声をかけるのがやっとです。

その夜、高校と中学になる子供3人に、夫の状況を率直に話しました。娘は、夫が日頃使っている枕を抱きしめて泣きじゃくっていました。

1週間前まで、幸せを絵にかいたような我が家がいったいどうしてこんなことになってしまったのか・・・。
悪い夢を見ているような感じとはこんな感覚なんでしょう。

* 11/16~19

最悪の状況も考えられた中、夫は戦い続けていました。
最高23だったCRPが2/日ぐらいのペースで下がっていきました。
腎臓機能も回復し、動注や透析もはずされました。
医師からはこのままいけば、週明けあたり一般病棟に移れるかもしないとの説明。
また、気管内挿管を抜管したあと、万が一のため気管切開をするとのこと。
少し希望が見えてきました。ただ「感染」という最大のリスクは以前としてあり、全く予断を許さない状況には変わりありません。

* 11/24

夕方病院に行くと、思いがけず夫が一般病棟に移されていました。
病院に着いてから知ったので、あわてて付き添う準備をするため自宅へいったんもどり、再び病院へ。
その間、夫は抑制を自分ではずし、なんとEDチューブを抜いてしまったのです。
担当の看護師さんは、ひたすら恐縮していました。

その夜、夫は大暴れ。無理もありません。10日以上眠っていて起きたら管だらけ。おまけに声も出ない。病棟といっても個室で機械だらけで、環境はICUとほぼ同じ。恐怖でおかしくなるのも当たり前でしょう。
がんじがらめに抑制されて、それが恐怖心をいっそう大きくしているようです。
激しいせん妄状態が一晩続きました。
私はひたすら夫の手を握り、「大丈夫。大丈夫よ」と声をかけるのが精一杯。
せめて片腕だけは抑制をとってあげたいと、その夜は夫の腕と私の腕を抑制帯で結んで過ごしました。
夫に殴られ、蹴られもしましたが、殴られた痛みより夫の辛さが心に刺さり、心が痛かったです。
逆にとても強い力に、「生きている」ことが実感できました。
一時期のことを思えば、手を握ってもらえるだけでもありがたかったです。

* 11/25 

  「天井から虫が落ちてくる」と、せん妄は続いていましたが、暴れることはなく、逆に、スタドールでうとうとしている日々です。
この間、CRPは順調に下がり一桁になりました。

* 12/1

痛みが治まっているようなので、スタドールが中止に。それと同時に意識もクリアになり、以前の穏やかで優しい夫が戻ってきました。
ただ意識がクリアになった分、自分の現状が受け入れがたい様子。 特に、床上での排泄は夫にとっては屈辱的な様子です。尿はバルンから出ていますが便はオムツです。若干50歳で、下の世話を人にしてもらうことになるなんて思ってもいなかったことでしょう。
でも私は便が出てくれると嬉しくて嬉しくて。
腸が動いている証拠ですから。

 * 12/4

CRPが1.38まで下がり白血球も8000台に。
主治医からは、「何とか発症から3週間、最大のリスクである感染を起こさずにこれました。時間はかかりますが、これで救命率は9割くらいにはなりましたよ」と言っていただきました。
ただ、37度台の発熱は持続し、胸腔内に溜まっている胸水も相変わらず引けています。
まだまだ油断はできないものの、「別離」の恐怖心はだいぶ薄れてきました。

* 12/6

これまでテレビを見る気にもなれていなかった夫が、テレビを見れるようになりました。
この日は日曜日だったので、普段と同様「サザエさん」を二人で見ました。
状況は決して楽観できるものではありませんが、久しぶりの穏やかな時間です。

今回の夫の重症急性膵炎は、ERCPを施術した病院サイドの施術後の判断及び管理ミスだと思います。闘病とあわせ長い戦いになるとは思いますが、告訴して賠償責任を問いたいと思います。先日カルテ開示の申請に行ってきましたが、示した私の免許証を、断りも無くコピーするなど、事務方の対応も杜撰なものでした。
病院の危機管理体制がまったくなっていないのでしょう。
まだまだこれからが大変ですが、家族で乗り越えていきたいと思っています。
       

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