慢性膵炎ノート

明るく!慢性膵炎生活

慢性膵炎体験談

うにさん   (2009年3月)
 
  H19年 9月、人間ドックにて膵尾部に10センチ大の腫瘍見つかる。
膵粘液性嚢胞腫瘍(MCN)と診断される。
H19年12月、手術のための外科へ検査入院(3泊4日)。
25日~28日の予定、ちょうどクリスマス。
それは最後の検査、ERCP後に起こったのです。

12月28日には退院し会社に御用納めに行くはずでした。
大晦日と正月をICUで一人で過ごすなんて思いもしませんでした。

<発症>

ERCP後、麻酔から覚めるとお腹が痛く、痛み止めを2時間おきに筋肉注射されるが痛みがひかず「これ以上はダメです」と言われどうしようもなくなっていた。

緑色の胆汁を吐きまくり、あれよあれよ言う間に色んな書類にサインさせられ(ボーッとしており何の書類にサインしたかも分からない)

まずIVHのため首からカテーテルを入れられました。
(顔にシート被せられ、何が起こってるのか分からず)
この時点で、病院から母と弟へ電話がある。
検査入院だったのが、いきなり重症なんてビックリしますよね。
2人とも遠方なので駆けつけることは出来なかったけど。

看護師の友人が駆けつけてくれて、心の中で「重症急性膵炎なんて責任持てない」と思っていたそうな。

動注療法として太ももの付け根から動脈カテーテルを入れられ、
(これも顔にシート被せられ、何がおこってるのか分からず)
尿管を入れられ、そしたら突然予定外の生理が始まりオシメをされました。

そんな状態で毎日あそこを洗われる。
恥ずかしいなんて言ってられません。
感染予防だから。

鼻から胃チューブを入れられ胃液を抜かれる。
お腹全体が痛く呼吸ができず酸素マスクをはめられる。
腸が異常に動いて硬く盛り上がって痛い。
そのたびに看護師さんから、潰瘍では、と心配される。

太ももから点滴、
(膵臓に直接抗生剤を投与)
首からは同時に4本の点滴。
(輸液その他投与)

腕には自動血圧計で1時間おきに測定。
おかげで右腕は痺れたままですが、医者たちは命優先だからと構うはずもなく。
血管は細くなり腕には採血の針の痕だらけ。
やっと見つけた血管も針を注すと逃げていた。

血糖値を1日4回、耳から血をとられ針の痕だらけ。
看護師さんが、痛々しい、と言っていた。

CTの造影剤も血管に入らず漏れる。
造影剤が漏れると痛いんですね~。
これがまた全く身動きできなくて、背中が痛くて、時間が経たなくて。
夜も3時間おきに点滴から眠剤入れてもらっても眠れない。

髪も洗わず、歯磨きもできず、唇はカサカサ。
2~3日たつと、寝たままシャンプーや歯磨きをしてくれた。
(これはすごい、と思った)

まるで人形みたいに吊り下げられて体重を測られ
(腹水が溜まると体重が増える)
寝たままレントゲン撮られて
(背中に入れる板が厚くて硬くて痛い)

それでも、毎日の体重測定やレントゲン、おしも洗い。
身動きできない私には、ちょっとの変化でも待ち遠しいものでした。

移動は全てストレッチャー、これは天井しか見えず酔うんですね~。

基本的にICUでは、1人の患者につき1人の看護師が24時間体制でつきます。

その中には慣れない看護師もいて、ベテラン看護師から怒られる。
そんな奴(しかも男性)に命を任せていいのか~。
患者の前で、看護師を叱るなんてしないで欲しいものです。
とても不安になる。

携帯はつながらない、テレビの電波も届かない。
ここでは除夜の鐘も聞こえない。

<そして新年>

正月も何もない、普通のICUでの一日。
外は寒かったらしいが、天気はおろか昼か夜かもわからない。
救急車のサイレンがしょっちゅう聞こえる。

新年が明けても、会社に連絡すらできない。
何でこんな事になってるのか、さっぱり分からない状態。

友人に頼んで、会社と母と弟に状況を説明してもらう。
一人ってなんて心細いものでしょう。

酸素マスクは咽が渇く。
はずしたらピポピポとサイレンが鳴り看護師がとんでくる。

鼻のチューブから胃液を抜くと、3色の胃液がでてくる。
黄、緑、茶。
とても気持ちの悪い色です。

<脱ICU>

なんとかICUで7日間耐える。

ICUを出る前に太もものカテーテルがはずされる。
動脈だから止血のため20分間ほど押さえる、担当は研修医(男性)。
これまた恥ずかしいなんて言ってらんない、出血したら大変。

これでやっと動けると思ったら、さらに1日絶対安静だと言う。
大の字になったまま動けない辛さ。5分がやたらと長い。

そしてナースセンター横の看護室で3日間。

久しぶりに起き上がるとクラクラする。
すっかり筋肉が落ちて足がベッドに上がらない。手で持ち上げる。
座り込むと何かに捕まらないと立ち上がれない。

たった1週間でこんなに筋肉が落ちるなんてビックリ。

「これは国の公的負担の対象になるから、早く申請に行くように」
そんなこと言われてもねぇ。
友人に会社を休んでもらって、区役所と保健福祉センターまで行ってもらう。

ホント一人暮らしというものが異常に寂しかったけど、
友人の厚意がとても嬉しかった。

<そして外科一般病棟へ>

やっと一般病棟へ戻る。
師長さんから「よく戻ってきたね」と言われ涙が出た。

もといた病室では皆がベッドごとどこかへ行ってしまった私を心配していた。

とても暇なんだけど、目に見えるもの耳に聞こえる事がうっとうしい。
テレビも雑誌も脳が拒否している。
ただイライラしている。
だから検査が入ると変化があってとても嬉しい。

当分IVHで食事もないから、メリハリもない。
料理の匂いが鼻につく。

毎日蓄尿して、少なかったら利尿剤の点滴。
(尿なんて一日どれくらい出るかなんて知らなかった)

血糖値も自分で測定して。
(だいぶ下がったと思いきや、それでも基準値より高かった)

洗顔も自分でできるようになるが、
いくら洗ってもヌルヌルしていてサッパリしない。
洗顔の間、立っているのがやっと。

シャワーも、一時的に点滴をとめて浴びれるようになったけど、
風呂椅子から立ち上がれないので、介護用浴室に入る。

点滴には輸液ポンプを使用しており、電源が必要で遠くまで行けない。
この輸液ポンプはとにかくうっとおしい。
液がなくなるとピポピポ鳴る。液が泡だつと鳴る。
歩いて揺れると鳴る。
そのポンプが3個も付いていた。

<内科へ転科>

そして検査入院から1ヶ月経ったころ、
外科の医者が「食事等の内科的処置はわからない」
と言って内科へ転科となった。

だから内科へ行ったら食事開始と思い込んでしまった。
内科へ転科してから、それからが長かった。

外科と内科は違う。看護師さんの対応も違う。
内科はのんびりしている。緊張感が少ない。

最初の内科は個室だった。大部屋が空いていなかったらしい。
一人なんて憂鬱。窓からは工事中のビルしか見えない。
持ってきてもらった漫画も小説も頭に入らない。

検査のたびに「食事はまだです」って言われ涙があふれてくる。
いつも「腫れは小さくなってます」って、どんだけ腫れてんだか。

この時、膵尾部の10センチの腫瘍の横に、
同じ大きさの仮性のう胞が出来ていたんですね。
おまけに膵管は形がわからないくらい溶けており、
膵臓は壊死を始めておりました。

思うように髪が洗えず、
病院内の理容室の人に出張してもらって
病室で髪を短く切ってもらった。

やっと大部屋へ移動、同室の人たちは良い人たちばかり。
「センセイにお任せするしかないんよ」とか「食事もうすぐよ」とか
何度も励まされた。
でも、同室の人たちは2週間後には皆退院していった。

下着類やシャンプーやタオル、日常品がそこをついて友人に買い足してもらう。

<脱IVH、そして流動食>

そして、50日間のIVHにより感染し、40度以上の熱をだした。

すぐカテーテルが抜かれ、腕からの点滴になった。
熱は中々下がらず、レントゲンで肺にも影が写るしまつ。

腕からの高カロリーの点滴は
点滴痛が起こり血管がズキズキして夜も眠れない。
また血管が脆くなっていて点滴の液はすぐ漏れて腫れていた。

点滴からの高カロリー摂取が無理となり、流動食が始まった。
半ば強引に、とても用心深く、薬の量も半端なかった。

しかし、50日ぶりの食事はとても美味しかった。
重湯がこんなに美味しいなんて知らなかった。
熱も下がらないから食欲はなかったけど美味しかった。

食事が始まるとイライラ感が少なくなった。
ボ~ッと何も考えず、ただベッドに寝ている事ができる。

人間、少しでも口から食事をするとこんなにも違うんだね。

しかし、流動食の期間は長かった。
強引に食事を始めたせいか、なかなかお粥にならない。
食欲はないから体重はどんどん落ちていった。
ダイエットって簡単じゃん、て感じ。

やっと熱が下がり、3分粥になると味噌汁に具が入る。
とても美味しい。おかずもあるし、フルーツもある。
全て柔らかく煮てあり、ビタミンなんて壊れて残ってないくらい。
相変わらず少ししか入らないけど、美味しかった。

そして2ヶ月が過ぎて、なんとか歩けるようになった頃、また熱がでてきた。
点滴から離れられない。

点滴や薬で熱が下がって、切れたらまた熱が出る。
三寒四温、一進一退、3歩進んで2歩さがる。

繰り返しながら、そうして除々に熱は下がってきた。

<祝退院、そして残ったもの>

5分粥、全粥、軟飯、米飯、とご飯が硬くなり、
3ヶ月が経過するころにヨロヨロながら外出許可がでた。
それから1週間後、退院。

退院時の採血結果は異常値だらけ。その後、色々と合併症が出た。
それでも太陽の下を歩けるって素晴らしい。

久々の自宅。郵便受けはパンパンに溢れていた。
カレンダーは12月のまま。年賀状も出していない。
私の新年は3ヶ月遅れでやってきた。

重症急性膵炎のおかげで腫瘍の横に仮性のう胞が増え、
膵臓は半分壊死してしまった。
手術はさらに難しいものになっていた。

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